元亀3年(1572年)、伊東義祐(いとう よしすけ)が木崎原の戦い(きさきばるのたたかい)で島津義弘に敗北。

1577年に島津の圧迫を受けると家臣らが次々に離反し、佐土原城・都於郡城(とのこおりじょう)を捨てた伊東義祐は、現在の西都市をぬけ米良村から高千穂町経由で大友宗麟(おおとも そうりん)を頼って豊後入りした。

豊後落ち、伊東崩れとも言われます。

その中には飫肥城城主の義祐の息子、伊東祐兵(いとう すけたか)、後の天正遣欧少年使節の一人となる伊東マンショ(8歳)の姿もあった。

当初150余名いた一行も、崖から落ちたり、動けなくなって自害した者もおり、豊後に到着した時には、80名前後になっていた。

天正6年(1578年)、大友宗麟は北上する島津氏に対抗して伊東氏を日向に復帰させるため4万3千とも言われる軍を率いて日向遠征を決定。

大軍を率いて日向国に侵攻してきた大友宗麟は、現在の延岡市無鹿(むしか)に本陣を置きます。

その後は、田原親賢(たはら ちかかた)を総大将にして本隊を任せます。

宗麟の目的は、キリスト教の理想国家建設でした。

日向国に理想国家を築くために、神社仏閣の破壊を始めます。

そのために、島津軍を打倒する機会を失ったとも言われています。

同年2月21日大友軍の先鋒は日向国門川城に入る、それに伊東家家臣団も加わった。

伊東家家臣団の長倉祐政(ながくら すけまさ)らは、耳川を超えて島津家の勢力圏に侵入、石ノ城で挙兵。

一方、島津義久(しまづ よしひさ)は6月に島津忠長(しまづ ただなが)を総大将とした7,000名の軍を日向へと派遣、7月8日、長倉祐政ら6,000名が守る石ノ城を攻を開始した。(石城合戦)

しかし、島津軍は劣勢を強いられ、副将が討死し大将の島津忠長(しまづ ただなが)も左肘を射抜かれ重傷を負う、500名以上の死傷者をだし、佐土原城へと撤去した。

しばらくして、島津以久(しまづ もちひさ)ら10,000名の軍が加わり、9月19日島津忠長は、再び石ノ城攻めを開始した。

29日に島津軍の攻撃に屈し、伊東家籠城軍が講和を申し出た。

しかし、10月29日耳川以北に布陣していた大友軍が南下し、島津軍が占拠していた高城を包囲した。

高城の本丸は東、南、北は高さ20メートル近い斜面に守られており、唯一地続きの西側の尾根には数メートルの深さのV字型の空堀が七本も掘り込まれている。

その他、幾つも曲輪が設けられ非常に攻めにくい城だった様です。

大友軍は数千丁の鉄砲と大砲で3度にわたって攻撃したが攻め落とせず、高城城主山田有信(やまだ ありのぶ)と島津家久(しまづ いえひさ)は3ヶ月籠城して城を守った。

逸話によれば、水不足か深刻化した時土塀の下から水が湧き出ているのを発見、そこを掘ると3日後には、こんこんと水が湧き出て泉のようになった「神は我々に味方している!」と士気も高まったそうです。

余談ですが山田有信の子、山田有栄(やまだ ありなが)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに参陣、徳川家康の本陣を目掛け突き進む主君・島津義弘に傷一つ加えさせない大活躍をした。

また本国に向けての敗走中に通過した村では、兵糧(ひょうろう)と休息所を提供してくれた村人への代償としては自らの刀の金象嵌(きんぞうがん)の鞘を村に置き残している。

これらの活躍が認められ、2020石を拝領している。

山田有信、島津家久らが高城城に籠城して耐えているころ、10月24日島津義久は30,000名の兵を率いて鹿児島を出発、途中紙屋城を経由し佐土原城に入った、日向内の兵も合わせると4万の大軍になった。

島津軍は前哨戦として、大友軍の本陣から東の方にある松原の陣へ奇襲をかけます。

島津義弘らは陽動部隊と3つの伏兵部隊にわかれ松原の陣を攻撃した。兵を左右に隠し、そこへ敵を誘き寄せ、三方からせめる「釣り野伏せ」の戦法を用いました。

この作戦は、島津の武将達20名から30名が、参拝にかこつけて久峰(ひさみね)の観音堂に集まり、小さな陣を作って今後の策について話し合いを行った。

最初は数十人の集まりだったが、この会合を知った若者達が次々に集まってきたので、その場に集まった武者達は、総勢600から700人ほどになったようです。

損害を受けて大友軍は和議を申し出たが、軍議の最中に田北鎮周(たきた しげかね)佐伯宗天(さえき そうてん)の両名が口論を始め、武士とは合戦で華々しく散るものと、後の兵がついてれくるのか、来ないのかも確かめず頭に血が上った両名は攻撃をしかけることにした。

そもそも大友軍は遠く筑前、筑後から動員された兵も多く自分には全く利益のない遠いところの合戦につき合わされているという心情を抱くものも多く、大将田原親賢(たはら ちかかた)が宗麟から贔屓されるのを嫌うもの、そもそも大友宗麟が戦場に陣を構えていないことなども手伝い、士気も低く指示系統も混乱をきしていたようでだ。
 
11月12日田北・佐伯が小丸川北岸に布陣する島津軍前衛部隊へ攻撃を開始した。これも大友軍本体も二人に続いた。

小丸川の西には合計700騎が河原の藪、低木、人家の陰に隠れた。これは敵兵が一ノ瀬を渡ってきた場合に敵勢の側面を突いて撃破するための伏兵である。

川下には合計600騎が森林の陰に隠れた。これは敵軍が簗瀬を渡って来たときにその側面を突くための伏兵である。

大将である島津義久は1万余騎を率いて根白坂の上に待機した。これは東西の伏兵がもし敗走した際にこれを助けるためである。

島津征久(しまず ゆきひさ)は配下の200騎を率いて一ノ瀬と簗瀬(やなせ)の間にある松陰に隠れた。

前衛部隊は小丸川の北岸、高城の東麓に陣を構えていた。左側が北郷久盛(ほんごうひさもり)、右は川上左京で、足軽と騎馬あわせて500名を率いている。

夜がまさに明けようとしていた午前6時前頃、大友本陣の軍勢が降りてきた。

大友勢は前衛部隊に攻めかかった。

突撃してきた大友勢と槍をあわせ、刀で斬り合い、火花の散るような激しい戦いを繰り広げた。

しかし、島津軍前衛部隊は壊滅、北郷久盛(ほんごうひさもり)らが討ち死にする。

大友軍は小丸川を渡ると島津義久本体を攻撃し始めた。

これを島津征久(しまづ ゆきひさ)の鷹羽の馬印が高々と掲げられたのを合図に、ほら貝が鳴り、島津義弘、島津歳久(しまづ としひさ)らが迎え撃つ。

高城の島津家久、山田有信らは高城城の城門を開き大友軍の背後へと出陣、根白坂の島津義久らも坂を降り攻撃に参加した。

ここでもまた、「釣り野伏せ」の戦法の形となった。

その後、島津義弘、島津征久(しまづ ゆきひさ)、島津歳久、島津家久らは大友本陣を目指して攻め上がった。

大友軍はたまらず総崩れとなり、体制を立て直すために耳川方面へ撤退を開始。

一部の部隊が竹鳩ヶ淵(たけくがぶち)方面へ撤退し、淵で佐伯宗天(さえき そうてん)らが溺死してしまう。

そのほか、尾鈴山の麓に位置する名貫川を渡り耳川方面へと敗走するも、耳川を渡りきれず溺死するものや、追撃してきた島津の兵士に殺されたものも多数いた。

大友軍は、2000から3000の首級が並んだと言います。

かくして、耳川の合戦は島津軍の大勝利に終わった。

敗報を聞いた宗麟は恐怖で狼狽し、財宝や大砲を放置したまま豊後へ逃げ帰ったといいます。

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