薩軍、最後の激戦「和田後への戦い」にまつわる場所へと行ってきました。 西郷隆盛率いる薩軍は明治10年(1877年)2月15日130,000余名で鹿児島を東京へ向けて出発します。

それから約半年後、この宮崎県の北部、延岡に位置する和田越えと辿り着きました。 和田後への戦いは、西郷隆盛が西南戦争を指揮した中で唯一戦場に立ち直接指揮を振るった戦いです。

薩軍3,500人、一方山縣有朋率いる官軍50,000と圧倒的な兵力の差がありました。

約5時間にも及ぶ戦いの末、敗れた薩軍は北の方に敗走しました。

そしてたどり着いたのが、延岡市北川町俵野にあります児玉熊四郎邸でした。

児玉熊四郎は、現在当時の面影を現在に伝えるべき西郷隆盛宿陣跡資料館となっています。

児玉さんというお方が館長をお勤めですが、もしかしたら児玉熊四郎さんの末裔に当たるのかもしれません!

この児玉熊四郎邸の裏山には、瓊瓊杵尊の御陵が有ります。

西郷隆盛は、天皇の先祖が祀られいるこの地に官軍は、鉄砲や大砲は絶対に打ってこないだろうと思い、ここに陣を敷きました。

事実2日半、官軍の攻撃はなく、いっときの安堵の時を過ごせました。

西郷隆盛は、明治10年(1877年)8月16日に最後の軍議を開き、薩軍解散布告令を発令。

我が軍の窮迫此処に至る。

今日の事、唯一死を奮って決戦するにあるのみ。

この際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり卒の士となる、唯其欲するところに任ぜよ」

「官軍に降伏するものは投降し、闘うものは戦い!個人個人が自分の今後を決めて良い」という事です。

西郷隆盛は、重要書類とともに明治天皇から賜った当時日本で一着しかない陸軍大将の軍服を焼き払いました。

そして、足に負傷を負った息子「菊二郎」を官軍に所属している弟「従道」に託します。

これが、隆盛と菊次郎の最後の別れとなりました!

同年8月17日官軍の包囲網が整い、薩軍は逃げ道を失います。

薩軍は、可愛岳を越えることを決意します。

17日の夜10時に、村人を案内人に可愛岳を目指します。この時、薩軍は600人程度でした。

ここから、高千穂町三田井、五ヶ瀬、美郷町南郷、小林、えびのを通って鹿児島を目指しました。

途中、さまざまな所で官軍と戦ってたいます。

高千穂町には、官軍の死者を弔う墓地も存在します。

官軍墓地にありました、小坂峠へも行ってみました。

実際、小坂峠までの道が整備されていないなどの理由により、小坂峠までは辿り着けませんでした。

次回は、しっかり情報集めをして小坂峠まで行ってみたいと思います。

9月1日に、鹿児島に到着した薩軍は372名となっていました!

9月24日、「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に声をかけます。

西郷隆盛死去。享年51歳。

これで、西南戦争は終息しました。

城山での戦いよる死者約160名、降伏約200名でした。

それでは動画でどうぞ!

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