鬼島津こと島津義弘の居城 飯野城へ行ってみた!

天文4年7月23日(1535年)島津氏第15代党主、島津貴久の男四兄弟の次男として生まれた。

永禄7年(1564年)貴久の名を受け、真幸院の守護を任された義弘が精兵60人を連れ、加世田をたち2月飯野城へ入った。

以来26年間、三十歳から五十六歳までこの城を居城とし、数々の合戦へと出陣した。

小田村の久藤城を修築し、新城を加えて加久藤城と改称し、広瀬婦人を置いた。

元亀3年(1572年)伊東義祐が3,000の大軍を率いて攻めてきた、木崎原の戦いである。

これを300の寡兵で奇襲、打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して島津氏の勢力拡大に貢献した。

天正6年(1578年)兄義久らと高城合戦(現在の宮﨑県児湯郡木城町)で豊後の大友宗麟率いる大友軍に勝利する。

勢いに乗った島頭軍は、肥後相良義陽、肥前の竜造寺隆信らの軍をつぎつぎと破り、九州をほぼ制圧した。

天正15年(1587年)、大友氏の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂で戦う(根白坂の戦い)。

このとき義弘は自ら抜刀して敵軍に斬り込むほどの奮戦ぶりを示したというが、島津軍は兵力で豊臣軍に及ばず劣勢であり結局敗北する。

その後の5月8日に義久が降伏した後も義弘は徹底抗戦を主張したが、5月22日に兄の懸命な説得により、子の久保を人質として差し出すことを決めて高野山の木喰応其の仲介のもと降伏した。

このとき秀吉から大隅国を所領安堵されている。

なお、この際に義久から家督を譲られ島津氏の第17代当主になったとされている。

慶長3年(1598年)9月からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の20万人の大軍(島津報告)を7,000人の寡兵で打ち破り、島津家文書『征韓録』では敵兵3万8,717人を討ち取った記載がある。

これは朝鮮側史料の参戦数と照らし合わせれば、夫役に動員された明・朝鮮側の非戦闘員を含めるとしても誇張・誤認の可能性はあるが、徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。

島津側の数字を採用するなら、寡兵が大軍を破った例として類例のない勝利であり、この評判は義弘自身や島津家の軍事能力に伝説性を与え、関ヶ原の戦い、ひいては幕末にまで心理的影響を与えていくことにもなった。

関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。

しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。

その結果、この時点で300人まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。

この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い自軍の秩序を守る一方で、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。

島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。その際、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。

島津隊は東軍の前衛部隊である福島正則隊を突破する。

このとき正則は死兵と化した島津軍に逆らう愚を悟って無理な追走を家臣に禁じたが、福島正之は追撃して豊久と激戦を繰り広げた。

その後、島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下した。

この撤退劇に対して井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃したが、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い忠吉も負傷した。

しかし、戦場から離脱しようとする島津軍を徳川軍は執拗に追撃し続けた。

このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。

その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり、井伊直政や松平忠吉の負傷によって東軍の追撃の速度が緩んだことや、家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。

義弘主従は、大和三輪山平等寺に逃げ込んで11月28日まで70日間滞在し無事帰国した。

無一文であった義弘主従は平等寺社侶たちからの援助によって難波の港より薩摩へと帰還する。

その際に義弘は摂津国住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に帰還したという。

生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。

また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞也を長塚正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。

この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

天正18年(1590年)6月、義弘は栗野の松尾城へ移った。

元和5年(1619年)7月21日、義弘は加治木屋形で生涯を閉じた。

享年85歳。

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